夜のない町

 「夜のない町」と呼ばれていた。

 昼はお天道様が照り付け、夜はネオンライトと蛍光灯が町を光で飾り立てる。そんな調子で、この町はもう十数年と寝静まったことはなかった。

 

 この町には、事実上法律というものがない。あからさまでなければ、どんな犯罪行為だって見逃される。窃盗に強盗、レイプに麻薬、想像しうる限りの悪徳がすべてこの町には渦巻いていた。

 やかましい音を立てて走る鉄道の高架下にはホームレスがよく寝ているが、たまに本当に死んでいることがある。しかしそれを見分けられる者はいない。元々死んでいるようなものだからだ。数日たって、腐臭が強くなり、それが元々の体臭を上回ったあたりになって、ようやくその死に気づかされる。そしてその次の日には、死体は誰かの手によって撤去されている、跡形もなく。そしてその数日後には、また新入りがやってくる。

 今日職場に行くと、同じ部署にいた男が昨日付けで退職していたことを知った。というのに、誰もそのことについて話す者はいない。彼が辞めた原因が麻薬にあるということを、誰もが知っているからだ。元々酒癖の悪い男で、朦朧となるまでジョッキを傾けては、無関係の人間に絡んで殴ったり殴られたりしていたものだ。だからいずれこうなるだろうことは誰しも思っていたし、そのことを悲しむ者も、敢えて口にする者もいるはずがなかった。

 路地を歩いていると、たまに女性から声をかけられることがある。しかしこういう時、取り合わせてしまうのはご法度だ。この町で女性が一人でいる場合、その大抵は娼婦だった。目を合わせることは合意を意味する。無視して歩くのが一番だ。下手をすれば、家までついてきてしまうことだってある。

 アパートに帰ると、隣の部屋に住んでいる小太りな男とちょうど鉢合わせた。我々はこんばんはと一言だけ交わして、それぞれの部屋に帰っていった。アパートの部屋は結構な数あるが、そのほとんどの住人を見たことがなかった。さっきの小太りの男と、下の階にいる、病的に痩せた男くらいだった。その痩せた男は麻薬常習者で、時々家に人を集めては、夜遅くまで仲間とどんちゃん騒ぎをしていることがあった。深夜まで大音量で音楽を流しているものだから、こちらとしてはいい迷惑だ。

 今日の夜は珍しく静かだったが、寝る前になって、隣の部屋の扉をドンドンと叩く音がする。そして外から、男の恫喝の声が聞こえる。取り立てだ。犯罪には寛容なこの町も、金に対してはすこぶる敏感だ。金の貸し借りを一度でもすれば、もう二度とまっとうな道では生きられないだろう。

 扉を開ける音がする。そして怒号、悲鳴、物音。破壊の音がする。そして静寂。扉を開ける音、閉める音。終わったのだ。私は何事もなかったようにベッドに入ったが、彼のことを気にかけずにはいられなかった。

 目を閉じて眠りにつこうとしたところで、まるでタイミングを計ったように、床下から爆音が鳴り始めた。アイツだ!あの麻薬中毒者が、ちょっと遅めのパーティーというわけだ。今日はないものと思っていたのに―――。私は体をひっくり返してうつぶせになり、布団を頭からかぶりながら全身をわなわなと震わせていた。私は思いがけなく自分の運命を呪った。

 なんて生きづらい世の中だ!悪辣で、冷酷で、救いなどどこにもない。我々は常に甘い誘惑の声に晒されている。そしてそれに誘われてしまったら最後、どん底に落ちるまで叩きのめされ続けるのだ。

 こんな世界で、どうやってまともに生きていけばいいのか?言ってしまえば、綱渡りのようなものだ。我々は常に、落ちるかどうかの瀬戸際を歩かされている。今回はあの小太りの男が落ちたわけだが、私だっていつ落ちるかどうかはわからない。もしかしたら、それは明日のことかもしれないのだ。

 だが―――それでも生きていくしかない。歯を食いしばって、背筋を曲げてでも、懸命に今を生き抜いていくしかない。たとえそれが死よりも辛いことであったとしても、生きていくしかないのだ。

 

 次の日の朝家を出るとき、ちょうど隣の部屋から彼が出てくるところだった。敢えて見せないようにはしていたが、左頬にある大きな痣は隠しきれるものではなかった。我々はおはようございますと一言だけ交わして別れた。一日がまた始まる。町は今日も眠らない。