音楽の話

 

 

 なんか、思ったことを話してもいいですか?

 

 いや、分かってますよ。そんなこと十分分かってます。この前書いたブログがまだ書き終わってないってことは。

 

 でも別にいいでしょ?あんなん多分誰も読んでないし多分。それに何だか、今はそういうんじゃないんですよね。意味わかる?今はそういう感じじゃない。物事を時系列通りに順々に書き並べていくみたいな、そういうことをする感じじゃないんです今は。分かる?分かるかな?

 

 なんでかというと、つまりなんでそんな感じになっちゃったかというと、まあ端的に言えば修論に心を破壊されたからですね。

 

 いや~もうホントに修論キツかった。精神的に重圧だったっていうのはまあもちろんそうなんですけど、シンプルに書く文量が多すぎた。どれくらい書いたかと言うと、A4用紙にしてちょうど150ページになったんですけど。しかもこれ英語で書いてて、体感英語と日本語だと1.5倍くらいページ数変わるんで、まあざっくり220ページ分くらい?

 

 いや、ヤバいでしょ。小説?いや下手したらその辺の小説よりも長いよコレ。そんな量の文章をだいたい1か月半かそこらで書き上げなきゃいけなかったってんだから、まあそりゃ心の1つや2つは壊れますよねって話。

 

 まあそんなことはどうでもいいんだけどさ。まあとにかく、今はあんまり、今までみたいに時系列順に起こった出来事とかを書いていくみたいな、そんな気分じゃないんですよね。

 

 じゃあブログ自体書かなくていいんじゃないかって気がしますけど、違うんだよね。ブログは書きたいの。分かります僕の言ってること?分からんか!

 

 ブログを書く気はある、っていうか書きたいんですよ。せっかく修論から解放されて、でこれは僕の勝手ですけど、この2月3月はあんま研究進める気ないんですよね。だからなんか、この空白期間にブログをちょいちょい書きたいなーとは思ってるんですよ。でも日記を書いていくのは違うっていう。分かります?僕の言ってること?

 

 で、まあそれでどうするかというと、まあとりあえず思ったことを書こうかなって、そう思ったんですよね。いいですかそれで?まあダメって言われても書きますけど。

 

 で、それでじゃあ何を書くのかというと、まあ音楽の話かなって。というのは、なんか最近音楽のことをよく考える、ていうか考えちゃうんですよね。

 

 どうしてかというと、ここ最近音楽にちょいちょい触れる機会があった、いや触れちゃったからなんですけど。

 

 触れる機会というのは、例えば、僕の研究室の同期がいて、彼はピアノが趣味で今も弾いてるらしいんですけど、修論の時期に現実逃避でめちゃくちゃピアノ弾いてたらしいんですよね、彼。で、それで、「じゃあなんか一曲聞かせてよ」みたいな感じで、大学の講義室にあるピアノをちょっとの間借りて彼に弾いてもらって、お~wみたいな。

 

 あと、僕には姉がいるんですけど、姉も楽器を、まあピアノとヴァイオリンをやってるんですけど、それで何か市民の管弦楽団みたいなのに所属してるらしくて、その定期演奏会が最近あって、それで来てって言われて、まあ行って演奏を聴いたみたいな。そういうのとかね。

 

 まあそんな感じで、なんか最近結構な頻度で、音楽に触れる、いや触れちゃう機会が何度かあって、それでなんか最近ちょくちょく、音楽について考える、いや考えちゃうことが増えたんですよね。

 

 まあ要するに、僕ってやっぱ何だかんだ音楽が好きなんですよね。あんまりブログとかで語ったことはないような気がしますけど、何だかんだ音楽大好きボーイなんですよね、僕って。

 

 なんでそれを殊更に語らないかというと、まあ何だろうな、僕が言う音楽って、ロックとかジャズとかそういうカッコいい感じの奴じゃなくて、なんかオタクっぽいクラシックとか、あとはまあゲーム音楽とか、そういう系なんですよね。僕ってオタクくんなんで。意外かもしれませんけど。

 

 それに、僕って実はピアノを12,3年くらいやってたんですけど、やってた年数に対して実力がカス過ぎるんですよね、正直言って。だから何だろうな、ぶっちゃけ、あんまり人にピアノの話をしたくないんですよね。何やねんって感じですけど。

 

 まあそんな感じで、音楽は好きなんですけど、あんまりそれを人に話したり、意見を言ったりするのはあんまり好きじゃないっていう、そういう感じなんですよね。

 

 でもまあブログだったらいいかなみたいな。どうせ誰も読んでないだろうしこんなブログ。よしんば読んでたとして、別に内容として僕のブログを把握してるわけじゃないというか、なんか適当に読み流してるだけでしょ?みんな。だからまあいいかなっていう、まあそういう感じですね。

 

 まあそんなわけで、音楽のことを話そうと思うわけですけど。

 

 まず僕がピアノを習い始めたのは、たしか5歳の頃ですね。これは多分一般的には早い方なのかな?分かりませんけど。

 

 どうして習い始めたのかというと、まず僕の姉が最初にピアノを習ってたんですけど、それで、だいたい音楽教室ってのはどこも定期的に発表会みたいなのがあって、そこで姉も弾くってんで、家族で見に行ったんですね。それで、色んな人たちがピアノを弾いてるのを見て、いいな~って思って。それで、僕もピアノ習いたい!って親に言ったんですよね、確か。

 

 まあそれでピアノを習い始めたわけですけど、まあ最初の方は楽しかったですね、実際。楽しかったんですけど、うーん、何だろうな、当時の僕がホントに「ピアノを弾くこと」を楽しんでいたかというと、若干それは怪しいところがあるんですよね。

 

 つまり僕は純粋にピアノを弾くことが楽しかったんじゃなくて、ピアノを弾けるようになったことで、親とか周りの人に褒められることが楽しかったんじゃないかって、今思うとそんな気がするんですよね。5歳とかってまだ幼稚園児の頃ですから、その時からピアノなんか弾けたらまァ~褒められるわけですよ。チヤホヤされるわけですよ。僕はそれが気持ちよくて、つまり純粋に音楽を愛する心と言うよりも、単に褒められることに対する報酬系の刺激を求めてピアノを弾いてたんじゃないかって、そんな気がするんですよね、今となっては。

 

 まあそれはどうでもいいんですけど。

 

 それで、まあ何はどうあれピアノの趣味は結構続いて、小学校6年生のころまで続くんですけど、でもそこで一旦辞めちゃったんですよね。なんでかと言うと、中学受験があったからですね。中学受験って結構余裕ないんでね、子供も親も。いや、もしかしたら余裕がなかったのは僕だけかもしれませんけど。まあとにかくピアノとか続けていられるような感じじゃなかったんで。

 

 でもこれは覚えてるんですけど、ピアノを辞めた時、つまりピアノ教室の先生に辞めますって言った後、家に帰るまでの帰り道を歩いている時、泣いてたんですよね、僕は。

 

 でも泣いてたってことは覚えてるんですけど、それがどうしてなのかは分からないんですよね。その時何を考えてたかってのは覚えてないんです。ピアノから離れることの寂しさなのか、それとも自分の趣味とか特技みたいなものを失ったことの悲しさなのか、今となってはわかりゃしないんです。でもとにかく言えるのは、僕はその時確かに泣いてたんだってことです。

 

 それで、中学受験が終わって、中高一貫の私立に入って、中学2年生の頃かな?またピアノを習い始めました。2年以上ブランクがあったんで、もうほとんど1からやり直すみたいな感じでしたね。

 

 それで、これもまたぞろ大学受験がある高3の時期まで続けることになるんですけど、正直言うと、続けてたっちゃ続けてたんですけど、あんまり練習に身を入れるような感じじゃなかったんですよね。

 

 それは1つには部活動が、つまり文芸部の活動があって、まあ活動って言ってもボードゲームなんですけど、まあそれで結構帰りが遅くなりがちだったっていうのがあるんですけど、それに、僕って高1くらいの時からちょいちょい塾に通ってたんですよね。まあこれも別にそんな気合入れて勉強してたってわけじゃなくて、ただなんか通ってたっていう、それだけなんですけど。まあとにかくそんなわけで、時間的にそんなに余裕があるわけじゃなかったっていうのが1つの理由ですね。

 

 そしてもう1つはというと、まあ端的に言えば、””限界””を感じ始めたからですね。限界ってのはつまり、自分のピアノの実力がってことです。もう上限に触れちゃったんじゃないかって。いや、こう言うとちょっと語弊があるんですけど。もちろん練習すれば練習するだけ上達はすると思いますけど、それはそうなんですけど、それで上達していって上達していって、自分の中で、その究極形みたいなものに辿り着いたとして、僕の場合、なんかあんまり大したことにならないんじゃないかって、そう思ったというか。気づいちゃったというか。

 

 まあ要するに、「オレって才能なくね?」ってことですね。

 

 これはどういうことかというと、これをちゃんと話そうと思うと、僕の姉の話をしなきゃいけないんですけど。

 

 僕の姉って、ピアノ上手いんですよね、実は。贔屓目とかじゃなく、その辺の人より圧倒的に上手いんですよね。もちろんプロとか、音大芸大の人とかと比べたらもちろん劣りますけど、それ以外の一般ピーポーたちの中で言ったら、僕は姉よりピアノが上手い人間を見たことがないですね。そのくらい上手いんですよね。

 

 それで、ここが重要なんですけど、この「上手い」って、技術があるとか、表現が豊かとか、そういう話じゃないんですよね。なんというか、もう音が違うんですよね。全く同じ曲を全く同じように弾いても、一つ一つの音の音色と言うか、響き方が違うんです。姉はそれが「上手」かったんですよね。僕は「下手」だったんです。

 

 これってホントに不思議なんです。どうしてこんな差がつくのかわからないんですよ。確かに何かが違うんです。違うんですけど、それがどうしてなのかさっぱり分からないんです。弾くときの力の入れ方とか、指の形とか構え方とか、まあ何かしらは違うんでしょうけど、でも実際何がどう違うのかは分からないんです。

 

 それで僕が思ったのは、これが「才能」なんじゃないかってことです。分かります?僕が言ってること?

 

 模倣しようとしてもできないもの、生まれつき与えられていて努力で変えようがないもの、そういったものを「才能」と呼ぶんだとしたら、まさにこれが才能なんじゃないかって、そう思ったんです。分かります?僕が言ってること?

 

 そして何よりも重要なのは、そう思った瞬間、つまり僕が「自分には才能がない」と認識した瞬間、もう僕のピアノは「終わった」ってことなんです。僕のピアノの演奏からは一切の色味が失われて、僕はさしずめ翼の折れた天使のように、ただ落ちていくだけの身になったってことです。そして才能ある人間が、その大きな翼を悠々と広げて大空へと飛び去って行くのを、ただ茫然と眺めているだけの凡夫に成り下がったってことなんです。分かります?僕の言ってること?

 

 だからそれに気づいてから、高校の後半くらいからはピアノの練習をあんまり身を入れてやることができてなかったし、大学受験が終わってからも、なんか、もうピアノはいいかなって、そう思ったんですよね。もうこれ以上やっても無駄かなって。

 

 それで、もうピアノは一旦辞めようってなったわけですけど。でも何だろうな、たとえ僕にピアノの才能がなかったとして、だからといって音楽それ自体を諦めることはできなかったんですよね。それをするには音楽と長く付き合い過ぎたというか。腐れ縁幼馴染というか?よく分かりませんけど。

 

 それで、じゃあなんかいっそ別の楽器を始めてみようかなって思って、それで、これは姉の誘いなんですけど、他大の弦楽器のサークルに入ることになったんです。それでサークルに入って、最終的にどういう感じになったかというと、まあ以前のブログに書いた通りですけど。

 

 って、これ書いて思ったけど、サークルの話書いたのももう結構前なんだね。時が経つのって早いな~。当時と今で読者層が変わったかどうか分からんけど、ていうかこの記事を今読んでる奴がいるか分からないけど、当時のブログのリンク一応置いておきますね。

 

arlenadja.hatenadiary.com

 

 ここに書いてないことで何か言うとすると、結局僕はサークルに入ってからもピアノを弾き続けたってことですね。これは、サークルに入るその時には知らなかったんですけど。僕のいたサークルは1年に1回、自分たちで勝手にメンツを集めて合奏みたいなことをする、内輪向けの演奏会みたいなのがあって、なんだかんだ一人1曲か2曲は弾くことになるんですけど、弦楽器のアンサンブルって結構ピアノが組み込まれることが多いんですよね。それで、まあピアノ経験者が多くなかったってのもあると思うんですけど、ピアノ入りの合奏をする時には僕が呼ばれることが何度かあったっていう、まあそういうわけなんですけども。

 

 そして事実として、合奏でのピアノは結構楽しかったんですよね、実際。ソロと合奏ってもうホントに全然違って、RTAで言うと記録狙いとリレー大会くらい違うんですよね。全然違うじゃん!ってなるっしょ?いや、ホントに全然違うのよ、これが。

 

 一人で好き勝手に弾けばいいソロと違って、合奏ってのは皆で合わせなきゃいけないもんなので、表現の仕方とか、テンポ感とか、みんなで話し合って、お互いに譲り合って決めて行かなきゃいけないんですよね。こう書くとなんかめんどくさそうな感じしますけど、それがね~、なんか楽しかったんですよね、当時の僕にとっては。新鮮だったというか。

 

 でもその反面、みんなでやる以上絶対ミスれないんで、そこはかなりプレッシャーを感じましたね。ソロだったらミスっても適当にやりなおせばいいし、微妙な出来になっても恥かくのは自分だけなんで。でも合奏だったら誰かが崩れたらもう「終わり」なんで。だから結構本番前は「追い込み」がヤバかったみたいな、そういうところはありますね。

 

 そしてもう1つ言うとすると、サークルで活動していた日々は、やっぱり何だかんだ楽しかったってことです。でも一方で、じゃあもう一度やりたいかというと、もうやりたくはないですね。分かります?僕の気持ちが?

 

 どうしてかというと、やっぱり僕にはサークルの人間関係というか、人間同士の細かいやり取りというか?そういうのがやっぱり僕には合わなかったんですよね。当時の若かりし頃の僕ならともかく、今のセンチメンタル・アルル・ナジャには、人間関係の機微がひしめく中で、自分のアイデンティティーと上手く折り合いをつけてコミュニティに溶け込むのはきっと、いや、絶対ムリだろうと思います。

 

 そしていま1つは、たとえ楽器を変えたとしても、たとえソロから合奏に移ったとしても、やっぱり僕は自分の才能の無さ、そして「才能がない自覚」という呪縛から逃れることはできなかったってことです。

 

 確かに、別の楽器に触れてみて、合奏とかもやってみて、僕のピアノも少しは成長したと思いますよ。それは認めます。でもそれでもやっぱり、僕は自分の才能という檻の中から脱することはできなかったんですよね。結局のところ、僕は自分の理想とするところには一歩も近づくことができなかったんです。

 

 いや寧ろ、そうやって理想だとか何とか、そういう時点でもうダメなんです。分かります?僕の言ってること?僕が何かピアノの曲を演奏する時、僕の中にはその曲のイデアというか、理想みたいなものがあって、僕がやっていたことはただそれを模倣しようとする試みに過ぎなかったんです。なにかそう「あるべき」ものにしがみつこうとして、自らの感性の発現によって音楽を創り出そうとしなかったんです。

 

 つまりもう、僕のピアノ人生、そのどこかある時点から、僕はもうすっかり負け組に成り下がっていたんです。一度折れた翼はもう二度ともとに戻らなくて、僕はそれで完全に意気地を削がれて、地面から飛び立つことは疎か、そのために走り出そうとすることさえ無く、ただ地べたに座り込んで、肥大化した劣等感が産み落とした卑小な「理想」を、ただ指先でなぞっていただけだったんです。分かります?僕の言ってること?

 

 そしてもう1つ、何よりも重要なのは、サークルを辞めて、楽器に触れることが一切なくなって、音楽をただ純粋な鑑賞者の立場で聴くようになって、そういう段階になって初めて、僕は初めて音楽を純粋に楽しめるようになった気がするんです。分かります?僕の言ってること?

 

 いや、ピアノを弾いてる時だって、もちろん楽しかったですよ。それは認めます。楽しかったんですけど、でも何か、ピアノを弾いてるその時は、つまり弾いている最中は、楽しかったというより、何というか、ただ必死だったんですよね。間違えないようにとか、表現がおざなりにならないようにとか、自分の思い描く「理想」から、実際の演奏が少しでも乖離しないように、音が少しでも零れ落ちないように必死だったんです。演奏本番とか、多分僕の表情とかすごいことになってたと思いますよ。鬼の形相というか。いや違うな。もっと悲壮感漂う感じ?必死乙w的な。

 

 まあとにかく、確かに楽しかったは楽しかったんですけど、でもどこか純粋に楽しめていないところがあったんです。でも楽器を弾かなくなって、その状態で音楽を聴いて、僕は初めて純粋に音楽が楽しいと思ったんです。言ってしまえば、僕はその時初めて音楽を純粋に「聴く」ことができたんです。

 

 これってホントに不思議なんですけど、ピアノを弾いていた時分には、あんまり好きじゃなかった曲とか作曲家とかも、今になって聴いてみると全然嫌いじゃない、というか寧ろ良いみたいな、そういう経験があるんですよ。純粋に音楽を聴くようになって、改めて良さに気づかされた曲がいくつもあるんですよ。

 

 なんかこれって、すごい悲しいことじゃないですか?なんか、じゃあ今まで僕がやってきたことって何だったんだって思って。僕が今まで必死に追い求めてきたものっていったい何だったんだって。もしかしたら僕は、自分の才能の無さに打ちのめされるあまりに、音楽の理想なるものを”捏造”したんじゃないかって。僕がやっていたことと言うのは、自分の才能の無さを克服しようとするんじゃなく、ただその現実から目を背けて、ニセモノの理想を視野狭窄に追い求めて、ただ勝手に片意地を張って勝手に苦しんでいただけなんじゃないかって思って。

 

 でも、これだけは確かなのは、僕は音楽が好きなんですよ。褒められるためにピアノを弾いていたころも、自分の才能の無さに打ちひしがれていた時も、僕は音楽が好きだった、いや、好きだったはずなんです。そうじゃなきゃきっと僕の性格的に、どこかでサラっと辞めてたはずなんです。だから確かに音楽が好きだったし、今も好きなはずなんです。そのはずなんですよ、、、

 

 なんか、こういうことばっかり考えちゃうんですよね、僕の人生。これは音楽に限らずそうなんですけど。こういうことばっかり考えちゃうんです。

 

 なんか、過去への後悔とか、そういうんじゃないんですよね。いや、それだったらどれだけマシだったか分かりませんよ。ああすればよかった、こうしておけばよかった、そういう後悔とか反省だったら、もしかしたら何か未来に活きることがあるかもしれないじゃないですか?でも僕の場合、なんかそういうのとは質が違うんですよね。何と言うか、ただ失ったものを数えているだけなんです。あれもダメ、これもダメ、ダメダメダメダメって、いやそれクレヨンしんちゃんやないか。

 

 何だかな~、なんかこれって僕の性格的な問題なの?僕が単に後ろ向きな性格だから失敗したことばかり思い出しちゃうだけなの?いや~それだけじゃないと思うけどな僕は。だって過去の記憶を全部掘り返しても失敗した試ししかないんですケド。これって単に僕が社会不適合者のカスだから失敗しかしてないから、だから失敗経験しか思い出せないだけなんじゃないの?いや、分かりませんけど。もしかしたらその両方なのか?いや、分かりませんけど。

 

 なんかホントに、勘弁してほしいんですよね、普通に。何がイヤかって、こうして過去を振り返ってクヨクヨしてる間にも、時間はいつも通りに進んでるんですよね。どうしようもないことを、現実じゃないことを考えている間にも、現実はどんどん前に進んでいっちゃうんです。サークルがどうとかサークルの女の子がどうとか、そんなことをずーーーーーーーーっとグチグチ言い続けて傷口を舐めてる間に、もう24歳になっちゃいましたからね僕。サークルとかもう何年前の話だよっていう。普通に、これあんまり言いたくなかったんですけど、僕普通に、研究室の同期とニコニコ動画の昔流行った動画の話とかしますからね、普通に。淫夢の話とかもしてますからね普通に。もうそろそろいいんじゃない?そろそろ飽きたんじゃない?もうそろそろ前向いて、未来に向けて歩きだしてもいい頃じゃない?でも問題は、もう今となっては、前がどの方向かも分からないってことです。分かります?僕の言ってること?

 

 まあそういうことですよ、僕が思ったのは。つまりどういうこと?って思われるかもしれないですけど、いやつまりもクソもないけど。つまりどういうこと?って聞かれて、つまりこういうことだよって言って、140字以内とかで自分の言いたいことを過不足なく伝えられるんだったら、そんなんもうとっくにX(旧twitter)にポストしてますよってハナシ。分かります?僕の言ってること?え、Blueskyなら300文字までいけますよwって?いや、そういう話してるんじゃないんだけど今。分かる?分からんか!

 

 なんか思うのは、こうやって色々言葉で語ってきましたけど、これで僕の思ったことが完全に、過不足なく説明できているのかというと、なんかできてない気がする、ていうかなんか違う気がするんですよね。いやお前ここまで読ませといてそれはないだろって感じですけど、いや、何だろうな、いや違うんですよ。

 

 つまり僕が言いたいのは、僕の、いや僕に限らず人の気持ちとか、その人が考えてることっていうのは、その気持ちそれ自体だけが「本物」だってことなんですよね。分かります?僕の言ってること?つまりどれだけたくさんの言葉でどれだけ説明を尽くしたとしても、僕の唯一本物な「気持ち」が言葉という何者かによって「表現」された瞬間に、もうそれはニセモノになっちゃうんじゃないかっていうことなんです。

 

 分かります?僕の言ってること?僕には分かりません。ちょっともうよく分かんないすわ。なんかもうよく分かんないよ僕は。何が正しくて何が間違ってるのか。今こうして考えていることだって、つまり言葉がどうとか本物がどうとか、これだってもしかしたら全く見当違いなことを考えているのかもしれないし。僕の音楽の才能とか理想の捏造とかだって、或いは全然意味のない問いかもしれないし。

 

 ほら、なんかこうやってすぐ難しいことに話を持ち込もうとするんですよね、僕って。なんか適当に小難しいことを言って適当な言葉で適当に物事を説明して適当にひっくるめて、それですべてを説明した気になってるんです。それで気持ちよくなってるんですよ。それって本質的に、マスターベーションとどう違うんですか?ってハナシなんですよ。分かります?僕の言ってること?

 

 なんか全然関係ないんですけど、最近キェルケゴールの『死に至る病』っていう本を読んだんですけど。そこでキェルケゴールの言うには、「死に至る病とは、絶望のことである」そして「絶望とは罪である」って言うんです。

 

 いや、うるせえよって感じですよね。オレはシンプルに病気だよ。社会不適合の病気。絶望とかそういうんじゃない。いや、ある意味では絶望だけど。

 

 

おわり