氷炭

  彼は殺し屋だった。

 そんなのいるわけがないと、人は思うかもしれない。しかしそう思われているからこそ、この稼業は成り立っている。事実彼は殺し屋だった。

 

 と言っても毎日人を殺しているわけはなく、その仕事は数か月から一年に一回。仕事の後は近いうちに必ず住処を変え、普通の会社員のフリをして過ごす。面倒なように思えるが、それを補って余りあるだけの高額な報酬を得られる。それだけハイリスクな仕事ということだ。

 その日の対象は、とある大企業に勤めるサラリーマンだった。この男がどういう人間で、どういう理由で殺さなければならないのか、それは彼の預かり知らぬことだ。必要な情報は、その男の人相、そして住所、そして日常的な行動、それだけで十分。それ以上の探りを入れるのは野暮であるし、危険でもある。

 彼は男を殺した。殺しの手段は彼しか知らない。確実なのは、ターゲットが死んだという事実だけ。それまでの過程や手法は彼以外の誰も知らないし、知る由もないのである。

 男を殺した彼は、家に帰った。彼は仕事のために転々とする住処の他に、戸建ての家をひとつ持っていた。彼には妻と幼い娘がいた。仕事上家族と生活を共にするのは難しいが、こうして時々家に帰り、束の間の休暇を家族と過ごすのである。

 妻と娘は、おかえりと言って温かい笑顔で彼を迎えた。妻は、彼の仕事が何なのかを知っている。しかし敢えてそれについて口にすることはない。娘は、彼の仕事を知らない。彼の手が血にまみれていることを知らないのだ。しかし彼はそれでいいと思っている。自分のやっている汚い仕事のことなどわざわざ知る必要はない。娘にはそんなものとは無縁の、もっとまっとうな人生を送ってほしいのだ。そしてそのための金を稼ぐために、彼は殺し屋をやっている。

 一週間ほど家族と過ごした彼は、ある日の明朝、皆が寝ているうちに家を出て行く。誰に見られることもなく、誰に見送られることもなく。

 

 ある日の仕事は、とある中小企業の取締役が対象だった。こういうある程度影響力のある人間は、殺すのに通常以上のリスクを伴う。勿論報酬もそれに見合うのだが。彼はより慎重な手段でその取締役を殺した。勿論その手段は誰にもわからない。

 殺しを終えた彼は、家でも住処でもなく、とあるホテルの一室で一晩を過ごした。転居の手続きは既に済ませている。次の日に家に帰り、また数日間を過ごしたら、それからはまた知らない土地で生活することになる。彼にとっては慣れたことだ。

 あくる日の朝、彼は歯を磨きながら、何気なくテレビをつけた。朝のニュースはとある会社の取締役の、不審な死亡「事故」について取り上げていた。彼が何ということもなしにそれを見ていると、事故が起こった場所が映し出されて、そこでは死んだ取締役の妻と娘が、地面の上に置かれた花瓶や花束の前で、泣き崩れて座り込んでいた。彼は何ということもなしにそれを見ていた。

 その日の夜になって、彼は家にたどり着いた。彼はそのままドアノブに手をかけようとしたが、ふと、扉の奥で声が聞こえるのに気づいて、手を止めて耳をそばだてた。

 娘が「パパ、今日帰ってくるんだよね?」と言うのが聞こえた。妻はそうよと言って答えた。娘は「パパ、誕生日プレゼント買ってくれてるかな?」と訊いた。妻は当たり前でしょと言って笑っていた。そうして二人は笑いあっていた。

 彼はそこでようやく思いだした。今日から二日後は、娘の誕生日だったのだ。今の今まですっかり忘れてしまっていた。男はドアノブに伸ばした手を戻して、その平を見つめた。何ということはない、普通の男の手だ。しかしその手はたくさんの人の血に染まってきた手だった。

 

 結局、男は家に帰らなかった。次の日も、その次の日も、男は家に帰らなかった。男はもう二度と、妻と娘の元へと帰ることはなかった。男の行方は、その後ついぞ誰にもわからなかった。