臨界

  20XX年、科学の光は世界の真理をことごとく暴き、最早人間の叡智の及ばぬところはなくなるものと思われたが、しかし現実世界のことをどれだけ知ろうと、死後の世界についてはまだ露ともわかっていなかった。また人はそれを知ろうとも思わなかった。科学的な見地からすれば、死はただの現象に過ぎなかったからである。

 

 しかしその中で、人の死と、死後のことについて尋常ならざる興味を抱いている学者が一人いた。学者は多くの苦心と膨大な時間、溢れんばかりの金を注ぎ込み、「死」を再現する方法を体現したのである。

 それは一つの注射剤であった。これを投与することで、30分間、体内の全ての細胞が活動を停止し、疑似的な死に至る。30分後には細胞が動き出し、また生命活動が始まる。いわば、「少しだけ死ぬ」薬である。

 学者は多くの実験を経て、この薬が確かに効果を発揮することを明らかにした。そしていよいよ人体に投与する段階に差し掛かったのだが、その被検体第一号に、学者本人が名乗り出たのである。彼は好奇心旺盛でありながら、また独占欲の強い人間でもあった。彼にとっては、自分が可能にした「死」を、自分より先んじて他の誰かが体感することは、到底許せることではなかったのである。

 結局彼は多くの人間の反対を押し切り、自らの体をその実験に捧げることを決めた。そして多くの研究者、医療関係者、親族、見物人が見守る中、学者の腕に薬剤が注射された。間もなく、彼の意識は急速に薄れていった。

 

 学者が感じたのは、まず浮遊感であった。自分の体を自分が見下ろしている。どうやら自分は今天井辺りにいるようだった。そして何より、苦痛であった。触れる空気が、傷口に塩を塗るような痛みを全身に駆け巡らせた。彼は雄叫びを上げんばかりに苦しんだが、どうしてか声は出ないようだった。

 死とはこんなにも苦しいのか!痛いのか!学者は驚くと同時に、苦痛の中で新たな発見に対する喜びを噛みしめていた。しかし苦しいものは苦しい、それに死がどういうものなのかかはもう分かった、だからもう戻ろう、そう思い、彼は眼下にある自分の体の中に下りていこうとしたが、そうはいかなかった。

 というのは、自分の体に近づくたびに、苦痛が増すのである。手を伸ばせば届きそうな距離まで来ると、強烈な痛みと苦しみとがないまぜになって、とてもその先に進めるものではなかった。慌てて天井あたりまで戻ってくると、苦痛の程度は最初と同じくらいまでになった。

 そこで彼はまさかと思い、今いる場所から少しだけ上に浮かび上がってみた。天井を易々とすり抜け、彼は上の階の部屋に出てきていた。すると驚くことに、さっきまであれだけ彼を苛んでいた苦痛が、嘘のように和らいだのである。

 なるほどと彼は思い、さらに上に浮かんでいった。階層をどんどん上がっていき、やがて屋上のさらに上まで昇った。そうすると、苦痛は完全になくなり、寧ろそれとは逆に、えもいわれぬ幸福感、快楽が彼の全身を優しく包み込んだのである。その心地よさと言ったら、彼のこれまでの半生で味わったどんな幸福、どんな喜ばしい出来事も、たちまちに些事になってしまうほどだった。

 こうなるともう止まるものではなかった。彼はさらなる快楽を求めて、もっと上へ、もっと上へと昇っていく。そしてその期待に応えるがごとく、快楽の度合いはめっぽう強くなっていく。やがて先程いた建物が点ほどの大きさにも見えなくなり、辺り一面広々とした大空しか見えなくなった後も、彼はただひたすら、玩具で遊ぶ赤子のように、無思慮に、無邪気に上へと昇り続けていた。

 絶頂をも超えて前後不覚になるほどの愉悦に包まれながら、彼は僅かに残った残滓のような意識の中、こんなことを思った。しかしこの時の彼にはその言葉の意味すら大して理解できていなかったことだろう。

 「実験は失敗だ」

 

 30分後、学者は帰ってこなかった。