空だ、と私はどうしてか思った。

 

 別に青いわけでもないし、雲も太陽もない。ただ灰色の空間が目の前に広がっていて、その中に自分が浮いているような感覚がある。地に足をつけている感覚はなく、重力もまた感じない。何もない空間だ。他には……右手に何かを持っている感触がある。しかしそれが何なのかはわからない。

 私は夢を見ているのだろうか?そう思ったとたん、灰色の空間に一筋の亀裂が入り、そこから漏れだすようにある風景が浮かび上がってきた。驚く間もなくそれは私の体を包み込み、私に一つの映像を見せるのだった。この映像には見覚えがあった。私の過去の出来事だ。私は過去を追憶しているのだ。

 この時の私は高校生だった。バスケ部に所属していて、二年生にして私はレギュラーだった。それはある日の練習中の出来事だった。

 練習の合間の休憩中、私が同期たちと談笑をしていると、そこに一人三年の先輩がやってきて、私たちを叱りつけた。この先輩は実力はあったが、後輩たちに対しての態度はすこぶる横柄かつ理不尽で、同期たちの間では嫌いな人間としてまず名が挙げられている人だった。私もその一人だった。

 先輩は我々に対して、試合が近いのに休憩している暇なんぞがあるのかと言った。しかし我々は先程まで二時間ぶっ続けで運動し、休憩に入ってまだ五分と経っていなかったのである。しかし先輩はこのような我々の言を頑として聞き入れず、我々に階段十周のトレーニングを命令した。この時ほど先輩を恨めしく思ったことはないものだ。トレーニングが終わった後、同期の中には倒れそうになっている者もいた。

 しかし、なぜ今になってこんなことを思い出したのだろう?そんなことを考えていると、今まで見ていた風景はふいに風船のようにしぼんでしまい、また亀裂の中に戻っていった。

 何なんだ、これは?そう思う間もなく、またその亀裂から、今度は別の風景が浮かび上がり、私に別の過去を思い出させる。

 それは夏の試合が終わった後の帰りのことだった。インターハイにあと一歩届かないところで敗退し、三年生はこれが最後の試合となってしまった。試合が終わり、荷物をまとめている時、私は通りがかった廊下の隅で、あの横柄な先輩が一人で涙を流しているのを見たのだ。あの時の私はなんとも言えぬ思いでその場を立ち去ったが、練習中のあの横柄な態度とは打ってかわった様子には驚いたものだった。

 しかしまた、なぜ今さらこんなことを?私がそう疑問に思うと、ふと、頭の中で警鐘が鳴った気がした。カン、カン、カンと、やかましい音に体を震わせると、灰色の空間はまるで霧が晴れるように消えていき、私は我に返った。現実世界に引き戻されたのだ。

 そこは、ある家のダイニングだった。私の手には包丁が握られている。そして目の前には、一人の男が、血を流した状態で横たえている。そしてそれは私のよく知る人物だった。

 ああ、と私は気が付いた。そういうことだったのか。

 頭の中では、まだ警鐘が鳴り響いていた。